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人生朝露

人生朝露

ディックとユングと東洋思想。

荘子です。
荘子です。

というわけで、
フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)。
フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)の『高い城の男(The Man in the High Castle)』の補足を。

参照:フィリップ・K・ディックと東洋古典。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5128/

『高い城の男(The Man in the High Castle 1962)』。
≪彼の目はそのくだりを見つけ、一瞬にそれを読み取った。

 城郭崩れて濠に返る
 今は軍を用いることなかれ
 おのれの領邑にのみ命令を知らしめよ
 貞正を保ちてなお屈辱あり

こりゃひどい!彼は恐怖にかられて叫んだ。この注釈にはこうある。

 この卦の中央に暗示された変化が起こり始めたのである。町の城郭は、かつてそれを築くために掘られた濠の中へ崩れ落ちようとしている。破滅の日は近い...。

 それは全部で三千行を超える『易経』の中で、疑いもなくいちばん不気味な文章だった。ところが「泰」という卦そのものは吉なのだ。
 どっちに従うべきなのか?
 それにしてもなぜこんなに大差があるのか?こんな託宣がでたことは、これまで一度もなかった。大吉と大凶が混じりあったような予言。なんという不気味な運命だろう。まるでこのご託宣は、料理人がどうかしたように、樽の底をこそげて闇のありとあらゆる屑や骨や糞をほうり出し、そこから樽をひっくりかえして、光をいっぱいにそそぎこんだようにみえる。それは二つのボタンを同時に押してしまったにちがいない、と彼は思えた。それで機械が故障して、こんなついてないやつの目で見たような現実観が飛び出したんだ。さいわい、それは一瞬だった。長くは続かなかった。
 くそ、これはどっちがじゃなきゃおかしい。両方であるはずがない。幸運と破滅が同時にくるものか。
 それとも・・・くるのだろうか?
 装身具の商売は幸運をもたらす。卦辞はそれを暗示している。だがあのコウ、あのいまましい陰の線。あれはもっと深い何か、おそらく装身具の商売とはつながりさえない、未来の破局、どおみちおれが逃れようのない悪運....。
 戦争だ!第三次大戦!われわれ二十億の人間がみな殺しにあり、文明が抹殺される。水爆が雨あられと降ってくる。
 ああ、おそろしい!何が起こるんだろう?おれがきっかけを作ったのでそれが動き出したのか?それともほかのだれか、おれの知りもしない誰かがよけいな干渉をしているのか?それとも---われわれみんなか。責任はあの物理学者どもにある。それとあの同時性(シンクロニシティ)の理論にある。あらゆる粒子がほかのありとあらる粒子とつながっている、だと。これじゃ、こわくて屁もひれない。宇宙のバランスが崩れると困るもんな。そのおかげで人生が、だれも笑ってくれるやつのいない、おかしな冗談になっちまった。おれが本を開くと、未来の事件の記録がでてくる。神様でさえ、どこかのファイルに綴じこんでわすれてしまいたいような記録。しかもおれは何者だ?(フィリップ・K・ディック著『高い城の男』朝倉久志訳より)≫

Pakua。
『高い城の男』とは、「もし、第二次世界大戦において枢軸国側が勝利していたら」という仮説を元に構築されたSF小説で、フィリップ・K・ディックの出世作です。作品中の「イナゴ身重く横たわる」という架空の小説と『易経』が大きな鍵となりますが、日本人が出ているにも関わらず、日本人にはとても説明しにくい(笑)。作中に度々出てくる『易経(I Ching)』は、フィリップ・K・ディックが日常的に使っていた書物でして、もともと彼がユング心理学に強い影響を受けてきたことの何よりの証拠ですが、特に『高い城の男』においては「謝辞」の中に挙げているこの2冊がそれを雄弁に物語ります。

”I Ching: Or, Book of Changes” Richard Wilhelm's and Cary F. Baynes translation 1950。 “Zen and Japanese Culture” D.T.Suzuki 1959。
リヒャルト・ヴィルヘルムのドイツ語訳を、ケイリー・ベインズ夫人が英語に重訳した『易経-変化の書(“I Ching: Or, Book of Changes”)』と、鈴木大拙の『禅と日本文化(“Zen and Japanese Culture”)』です。

C.G.ユング
英語版の『易経』は、ユングが序文をよせておりまして、シンクロニシティー(日本語では同時性・共時性)の概念を詳しく述べたものとしても貴重な書物です。また、前掲の『禅と日本文化』ではないものの鈴木大拙の『禅仏教入門(An Introduction to Zen Buddhism)』において、同じく、ユングは序文を寄稿しています。

参照:莫耶の剣の偶然、莫耶の剣の運命。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5091/

参照:ユングと鈴木大拙。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5095/

『高い城の男(The Man in the High Castle 1962)』。
≪しかし、それでも心は晴れなかったのである。いまはじめて、このまったく無関係な情況の中で、彼は物事がまずい方向へ、まずい方向へと進んでいく感じを、つかのまでも忘れることができた。この周囲にある“侘び”、放射されてくる調和の感覚・・・そのおかげだ、と彼は思った。この均整、バランス。この二人の若い日本人は、なんと道(タオ)に近いことか。前に私が彼らに惹きつけられたのもそれだ。わたしは彼らを通じて道を感じた。自分も道を垣間見た。
 本当に道を知れば、どんな心境になれるのだろう?「道とは、まず光を生み、つぎに闇を生むところのもの」それが二つの根源的な力の相互作用をもたらし、そのため、つねに新しい生成が繰り返される。それが万物を枯死から救っている。宇宙はけっして消滅することがない。なぜなら、闇がすべてをおおいつくし、完全に優勢に見えるときでも、その深みには、新しい光の種子がよみがえっている。それが道(タオ)である。光の種子がこぼれるとき、それは地上に落ち、土の中にもぐる。そして見えない土の中で、それは芽吹くのだ。(同上)≫

ここに「侘び(wabi)」、その後「道(Tao)」が出てきます。

これは鈴木大拙の『禅と日本文化』でしょう。「わび」「さび」の感性や、「和」の場の感覚、また、岡倉天心の『茶の本』にもある(実際、鈴木大拙は「茶の本」を意識しています)「変装した道教」としての茶道についての記述もあります。また、ユングの集合的無意識(Collective unconscious)について、珍しく鈴木大拙が解釈を述べているところでもあります。

鈴木大拙(1870~1966)。
≪「無意識」の形而上学的分析は、われわれを哲学者の言う同一性の理論にまでも入り込ませるであろう。もっとも、それまでに多くの説明と限定とを要するのであるが、とにかく観点を個人意識かぎれば、われらは「集合的無意識」にすら達し得ぬのである。「普遍的意識」とか「宇宙的無意識」と名付けうるものについては、人間意識の分析的研究の受持つ諸科学が立てた一切の限界を超越せねば、その実現は決して望められぬ。「宇宙的無意識」の観念は、なんとなく抽象的なひびきがあるが、人間の宗教的諸直覚はこの形而上学的仮設に傾き、それによって多くの重要な問題が解明されるのである。たとえば、共感的想像ということの可能性、華厳哲学の主張する円融無碍説、他人の内面に入り込むという感情移入の理論などみな「宇宙的無意識」に触れるとき、はじめて根本的に解釈される。後にそれに言及する機会があろう。
 禅が日本人に教えた多くの事柄の中で、芸術と生活に関して注目すべき一事は、すでに示唆したように、悟りの体験を強調していることだが、これによって「宇宙的無意識」が具象化して現れるのである。(鈴木大拙著『禅と日本文化』「禅と俳句」より」)≫

『高い城の男』には蕪村の句「春雨に ぬれつつ屋根の 手毬かな」がありますが、『禅と日本文化』の「禅と俳句」では、同じく蕪村の「釣鐘に とまりて眠る 胡蝶かな」の説明の大切な部分で、当然「これ」が出てきます。

鈴木大拙(1870~1966)。
≪「荘子」にこうある。
『或る時自分(荘子)は夢に蝶となった。ひらひらとここかしこに飛んで実際蝶となっていた。蝶としての好みを追うことを意識するのみで、人間として自分の好みを意識しなかった。不意に自分は目覚めた。そして、そこに、自分はふたたび自分として横たわっていた。自分はいま蝶となった夢をみているその時の人間だったのかどうか、人間になっている夢を現にみている蝶なのかどうか、今の自分には判らない。人間と蝶の間には必然に一つの「分」がある。この変移が「物化」といわれる。
 荘子の英訳者、リオネル・ジャイルズは、「分」と「物化」を“barrier”“metempsychosis”と訳しているが、それがどういう意味にせよ、荘子は荘子である間、荘子であり、蝶は蝶である間、蝶である。“barrier”といい“metempsychosis”というは人間の用語であり、蕪村と荘子と蝶の間では全く妥当ではない。(同上)≫

・・・あのPKDが、ここを読み落とすわけがない(笑)。

参照:ジョン・ケージと荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5096/

≪「おい、見ろよ。このタバコの箱の裏にジャップの和歌とやらが印刷してありやがら」エドは交通の騒音の中でそれを読み上げた。
 「ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけのつきぞ のこれる」
 エドは<天籟(チェンライ)>の箱をフリンクに返した。「なんだこりゃ?」そういうと、フリンクの背中をポンと叩き、ニヤリと笑ってトラックのドアを開け、柳行李をかかえて外を出た。(『高い城の男』より)≫

荘子 Zhuangzi。
当然、この「天籟(てんらい)」は荘子です。

参照:荘子逆読みのススメ。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005070/

今日はこの辺で。


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